写真家・久山城正が遺したもの  -Team Shiromasa

計算できない魅力に満ちた写真家、どんな状況にあっても常にポジティブ。偶然の不思議な世界を彼流にカメラで切り取ってみせてくれる、そんな久山 城正の生き方そのものがアートでした。ときに力強く、ときに不思議で、微笑ましい数多くの作品を彼は遺しました。
本当なら、もっともっと活躍してほしかった・・・。そんな思いを込めて、彼が遺した写真作品・闘病生活や面白かった彼の思い出話などをこのサイトでご紹介しています。
また、彼が何度も何度も訪れ、無心にシャッターを切り続けた東日本大震災の風景。この圧倒的な風景の中に、彼が伝えたかった何かを、感じでいただけたらと思いスペシャルコンテンツでお届けしています。ぜひご覧下さい。

目の当たりにすることの大切さ- 「東日本大震災の風景」スペシャルサイト
> 3.11 写真家・久山城正が遺した東日本大震災の風景

Team shiromasa

Works for Magazine – Hawaii

Happy birthday Shiro!

2005年6月7日 この撮影中に誕生日を迎えた久山にスタッフ全員がサプライズパーティを開いてくれたそうです。めちゃくちゃ楽しかった!と満面の笑顔で話してたなあ・・・。大好きだったHawaiiの海に散骨してから6年、今もこの海で楽しそうにふわふわと漂っているんだろうと思います。
-Team Shiromasa

あの日を決して忘れない -Team Shiromasa

東日本大震災から10年。
犠牲になられた多くの方々の魂が天国で穏やかでありますようお祈りします。
そして本当の復興が1日でも早く訪れますよう心から願っています。  

311 東日本大震災 – 津波 写真家・久山城正が遺した風景(2021/3 リニューアルしました)
311 東日本大震災 写真家・久山城正が遺した風景 Facebook


A levee in ISOHAMA Fishing Port in SHINCHI – MACHI was totally covered by the tetra pots coming over the pier.
新地町磯浜漁港の堤防は防波堤を越えてやってきたテトラポットに覆い尽くされていた。
(2011年4月20日6月23日撮影)

「目の当たりにすることの大切さ」   写真家・久山城正が遺した東日本大震災の風景

2011年3月11日、誰にとっても、その日は、忘れようにも忘れられない一日に違いありません。

写真家・久山城正氏は、東日本大震災から40日後に、ライターの廣瀬達也氏とともに、初めて被災地を訪れました。40日経っても、やっと瓦礫の中に通り道となる轍ができただけの状態で、どこまでも悲しみの風景が続いていたと言います。それから、彼は、廣瀬氏とともに何度も何度も、定期的に被災地を訪れては、無心にシャッターを切り続けました。彼を突き動かし、彼が伝えようとしたものはなんだったのでしょうか。震災が遺した悲惨な爪痕でしょうか、自然の脅威に対する人間の無力さでしょうか、それとも災害を乗り越えて立ち上がってくる人間の力でしょうか。敢えて言えば、そのどれもであり、しかし、どれでもない、それらの意識の先にある何か、そんな気がするのです。

ここにあるのは、彼の目が切り取った風景としての東日本大震災、それだけです。彼が今ここにいれば、「ただそこから溢れ出る何かを感じてくれさえすれば、それでいい」と言うかもしれません。ところが、実際に彼が切り取った風景を目の当たりにしてみると、溢れ出てくる得体の知れない力に、我々は釘付けにならずにいられないのです。

東日本大震災から10年が経過した今こそ、写真家・久山城正が切り取った大震災の風景を、ぜひ目の当たりにしていただきたい、そんな思いを新たに下記のWebsiteをリーニューアルしました。ぜひご覧いただきたく思います。

311 東日本大震災 – 津波 写真家・久山城正が遺した風景(2021/3 リニューアルしました)
311 東日本大震災 写真家・久山城正が遺した風景 Facebook

— 2021年3月11日 team Shiromasa

 

 

10年目の311   廣瀬達也

 50歳を過ぎたおっさん二人が人の目もはばからず、それでもお互いの存在を少しだけ気にしながらもバレバレで「泣いてる?」とお互い苦笑しあったのは、3月も下旬にはいった頃のことだった。場所は東北・岩手県陸前高田の町を目前にし内陸部を縦断する高速道路から三陸海岸へと向かう国道を駆け下った小さな集落でのことだった。まだ海沿いにある陸前高田の町は、その気配さえ見せない山間部での出来事である。

 涙の訳は突如として目の前にして現れた。いままで見たこともない荒れ果てた家々の、道路の、鉄道の痕跡を目の当たりにしたことである。川を遡り山を登って津波が海もみえないところまでやってきていたのだ。至る所にいろんなものが散乱し、家々は壊れ、道路は亀裂が入り凸凹になっていて少し進む鉄路はレールが切れて一部がなくなり、一部はあらぬ方向に折れ曲がっていた。ありとあらゆるものが川に突き刺さった鉄路に絡まっていた。その上空の木の枝には無数のカラスが集まっていた。それでもまだそこが集落だと容易に判断できる痕跡はあったのだがそこに人の住んでいる気配を感じることはなかった。その想像を絶する光景が痛烈に胸を貫いては感情が揺さぶられ、堪えられなくなったのだと、10年の時を経ていまはそう思えるようになった気がする。


 いろんなところを一緒に旅することの多かった二人は、人の気配のなくなった集落跡に出会うこともけして珍しいことではなかったが、それでもそこに住む人々が立ち去ってから“自然と風化した”ものとは明らかに異なった世界がそこにあった。窓が枠ごと吹き飛ばされ揺れるカーテン、汚れてはいるけどまだ真新しい食器や日用品の数々、持ち主のいなくなった衣類・・・そのどれもが声にならない叫びをあげているようだった。地図をみればまだ海までは数kmの距離があるのに「これが津波の力なのか?」と確かめるように声を掛け合ったことを覚えている。しかし、それはこれから二人が目の当たりにする想像を絶する世界と遭遇するためのほんの序章に過ぎなかった。陸前高田の町に近づけば家も道路も鉄道線路も、川も・・・どれも見分けがつかないほどに人の営みが打ち砕かれては数々の、もの言わぬ無数の断片となって見渡す限り一面を覆っていたのだ。

 どちらからともなく「陸前高田へ行かないか?」と声を掛け合ったのは3.11から2週間ほど経った頃だった。何を用意していいかも、何を着ていったらいいかもわからないままシュラフと、求められれば分け与えられるよう少し余裕を持たせた食料と水を車に積み込んでとにかく北上することになるのだが、そもそものキッカケはさらにその16年前。1995年1月17日に遡る。
 その日大阪南部の友人宅にいた私は早朝に起きた。突き上げるような地震の揺れで飛び起きた。ほどなくかかってきた電話は、当時奈良に住んでいた、同じように飛び起きたのだろう久山からで「テレビ見てみいぃ、神戸が大変なことになっているぞ」というものだった。“大変”とは言っているものの二人ともまだ本当に“大変”だとは思っていなかった。だから「あとで行ってみよう」ということで一旦電話を切ったものの、次第に明らかになる被害の凄まじさに2度と「行こう!」という言葉はお互いに出せなかった。それ以来私には心の中に引っかかり続けていたものがあった、それは「行こうと思えばどうにかして行けたんじゃないだろうか?」「何ができるかわからないけど困っている人の何かの役に立つことがあったじゃないだろうか?」文章という生業が「何かの力になれたんじゃないだろうか?」という思いに苛まれ続けたのだ。久山の場合はそれが写真だったのだと、16年後に東北へと向かう、段差が続きなかなか速度の上げられない車中で延々と思いを伝えあったのが昨日のようだ。「あのときのような後悔はしたくない。だからとにかく行ってみよう!行くことでなにかできることがあるはずだ・・・」そしてそれから幾度となく東北から太平洋に沿って南下する時間を共にし“伝え続ける”こととなるのだった。

 行ってみれば報道とは明らかに大きく違った世界がそこにあることに何度となく気づかされた。その繰り返しが“目の当たり”にすることの大事さを教えてくれた。久山の写真が、その大事さをいつまで経っても風化させないでいてくれる。人は忘れることで新しい幸せを得ていくのかもしれないが、同時に“忘れないこと”で幸せにつながる戒めを心の中に秘め続けるのかもしれないな、と思えば、あのときの俺たちの旅もなにかの役に立っているんだよね、きっと。なぁ久山よ・・・。

そうかぁ・・・あれからもう10年かぁ。それでもあのときの、1,000年に一度とまで言われた崩壊した世界の光景と出会った人々の姿や言葉、そしてあのときの久山の涙、交わした言葉の数々がいつだって昨日のことのように蘇ってくるのは、なんでなのかなぁ・・・

廣瀬達也