写真家・久山城正が遺したもの  -Team Shiromasa

計算できない魅力に満ちた写真家、どんな状況にあっても常にポジティブ。偶然の不思議な世界を彼流にカメラで切り取ってみせてくれる、そんな久山 城正の生き方そのものがアートでした。ときに力強く、ときに不思議で、微笑ましい数多くの作品を彼は遺しました。
本当なら、もっともっと活躍してほしかった・・・。そんな思いを込めて、彼が遺した写真作品・闘病生活や面白かった彼の思い出話などをこのサイトでご紹介しています。
また、彼が何度も何度も訪れ、無心にシャッターを切り続けた東日本大震災の風景。この圧倒的な風景の中に、彼が伝えたかった何かを、感じでいただけたらと思いスペシャルコンテンツでお届けしています。ぜひご覧下さい。

目の当たりにすることの大切さ- 「東日本大震災の風景」スペシャルサイト
> 3.11 写真家・久山城正が遺した東日本大震災の風景

Team shiromasa

美輪明宏さんに捧ぐ…久山との旅 /フランスワールドカップの旅(2) 原田宗典

最初に話を持ってきたのは、某大手出版社の女性誌編集者K林君だった。
1998年の3月のことだ。
K林君は僕よりも7、8才若い、30代初めのサッカー好きの編集者だった。彼は、創刊したばかりの女性誌の編集に関わっていたのだが、なんとかしてサッカー寄りの記事を書こうとして必死だった。僕のところへ来たのも、なんだか的はずれのインタビューを取りに来たのが最初だった。

「中田英寿の魅力について」
僕の他にも何人か著名人が答えていた筈だが、いずれにしてもまるきりサッカー音痴の僕のこところへ来るなんて、的はずれもいいところだ。はずれすぎていてかえって気になる取材だった。だから答えてみようという気になった訳だ。
偶然、というか必然的な気もするのだが、僕とK林君は共に美輪明宏さんのファンだった。しかも2人共、美輪さんのお宅にお邪魔したことがある、というちょっと特別な共通点を持っていた。K林君の場合は、数年前お宅に伺ってインタビューをしたのが縁で、なぜか美輪さんに気に入られて、たびたび呼びつけられるような仲になったという。確かにK林君は華奢な二枚目で、いかにも美輪さんがかわいがりそうな男の子であった。
「お気に入りの編集者って訳だね」
と言って僕が嫉妬半分に茶化すと、K林君は
「いやー、そんなんじゃないんですよ」
などと言ってまんざらでもなさそうな顔をしていた。
そんな風にして美輪さんの話題で盛り上がり、すっかり意気投合したところへ、これもまた偶然に久山が訪ねてきた。前の週に撮った「嘘の女王」の写真を、彼は携えて来たのだった。
もちろんデジタルではなくてフィルムだった。8X10という大きいフィルムで撮ったものを紙焼きにして持ってきたのだった。現像の段階で何か特殊な技法を使ったらしく、何パターンか見せられた「嘘の女王」の写真は、実に独特の仕上がりだった。絵のような写真、とでも言うのだろうか。おそらくモノクロームの紙焼きに彩色を施したのだろう。中でも瞳を閉じた美輪明宏の写真は異彩を放っていた。それを感じたのは僕ばかりではなかった。一緒に写真を眺めていたK林君も
「この・・・目をつむっているやつがいいですね」
と言っていたし、撮った久山本人も、
「そやろ!いけてるやろ」
と我が意を得たりと言った声を出した。


僕たち3人はしばらくの間ぼーっとなって、この不思議な写真を眺めていた。やがてK林君が、ふと我にかえったような顔つきになって、唐突にこう言い出した。
「6月のフランスのワールドカップに取材で行きましょうよ。この3人で!」
僕と久山はぎょっとして互いの顔を見交わした。
「あなた近いうちにフランスに行くことになるわよ。きっと」
あの時、美輪さんが口にした言葉が僕らの脳裏をよぎった。そのことを話すと、K林君は少年みたいに瞳を輝かせて、
「それこそお導きです!そういうことなら美輪さんの予言を的中させましょうよ!僕、うまいこと企画立てますから。フランスへ行きましょうよ。ワールドカップの取材旅行!」
興奮した口ぶりでそう言った。僕と久山は半信半疑ながらも、
「いいね!」
「えーやん!ほんまにワシも行ってええんか」
などと言って相槌を打ち、彼の気持ちを煽り立ててやった。3人共、何やら不思議な熱に浮かされたような状態だった。
それから先は、文字どおりとんとん拍子で話が進んでいった。おそらくは僕や久山のあずかり知らぬところで、K林君がひとりで奮闘してくれたのだろう。彼は翌週、手ごわい編集長を説き伏せて企画を通した、と連絡をよこした。更にその翌週、3月の終わりごろには『フランス・ワールドカップツアー』の詳細なスケジュールを作成して、FAXで送ってきた。全く何かにとりつかれたかのような手際の良さだった。
僕と久山はこのFAXを長野のパラリンピックの取材先で受け取った。
「パラリンピックの次はワールドカップか。嘘みたいやなあ」
本当に嬉しそうに笑っていた久山の顔が忘れられない。

それから約2ヵ月後の6月、僕と久山とK林君の3人は、フランス・ワールドカップの旅へと本当に旅立った。全く夢みたいだった。僕と久山が一緒にフランスワールドカップの日本代表戦を観るなんて!フランスに向かう飛行機に乗ってからも、まだ信じられない思いだった。
最初に訪れたのは、フランス南部の小都市トゥールーズだった。パリのオルリー空港で国内便にトランジットして、1時間半ほど。行ってみてわかったのだが、トゥールーズという町はロケット産業がさかんな土地柄だった。僕ら一行も着いて間もなく、巨大なロケットの胴体を運ぶトラックを目撃した。一種独特の奇妙な光景だった。
さて、僕ら一行をトゥールーズの空港で出迎えてくれたのは、日本人女性のガイドI沢嬢とその夫、ブリス君の2人であった。I沢嬢というのは30代の日本人女性で、なんでも関西の方のヤクザの組だかお寺だかの出身で、20代の中ごろに単身、フランスに渡ったという。フランス語が一言もしゃべれない状態でフランスに着いた彼女は、ベビーシッターの仕事をしながらもともとの目的であったシャンソンの教室に通い始めたのだという。ここでまたひとつ、不思議な偶然の一致が僕らを驚かせた。というのも、聞けば、I沢嬢は美輪明宏さんに憧れて無謀にもフランスに渡ったのだという。
「どえらい奇遇やな」
久山は目を丸くして驚いていた。
一方、彼女の夫のブリス君というのは、植民地出身のフランス人なので、肌の色は浅黒く、どこか不良っぽい気配のある青年だった。彼は新しいプジョーのセダンを借りていて、運転手をつとめてくれた。それから肝心の「日本・アルゼンチン戦」のチケットの手配が、彼の最初の大仕事だった。なにしろこの「日本・アルゼンチン戦」のチケットというのは、大会直前に足りないことが判明して大混乱に陥った曰くつきのチケットだった。チケットが手に入らないままフランスに渡ったサポーターは2万とも3万とも言われていて、僕らもそんなチケット難民のひとりだった。K林君は出国前から気をもんでいたが、こればかりはもう運を天に任せて待つしかないことだった。
午後8時半、トゥールーズ郊外の逗留先に到着。僕ら3人がやっかいになる先は、ブリス君のお姉さんのアパルトマンであった。いわゆるホームステイ、悪く言えば居候というやつである。聞けばその日から3日間、お姉さんは知人宅に泊まりに行き、部屋は僕ら3人に明け渡してくれるのだと言う。
「へー、いい部屋やん」
アパルトマンは5階建ての簡素な建物で、東京に置き換えるなら、私鉄沿線に建つ都営住宅といった趣である。室内もごく普通の2LDKで、なにやら親戚のおばさんのうちに泊まりにきたような気分。フランスのアパルトマンと言われると、どうしても「ゴージャス」あるいは「セレレガーンス」な部屋を思い浮かべてしまいがちだが、フランス人の皆がみんなそんなセレブな生活をしている訳ではない。大半の人々の住宅事情は、日本のそれと大差ないようである。ただ違うのは、室内の家具の配置や調度品の飾り方。つまり生活空間の演出の仕方が、やはりどことなくフランス風なのである。まあちょっとしたことなのだが、例えばダイニングテーブルの上を見ると、花を飾る代わりに、ガラスの器に盛ったブラックチェリーが無造作に置いてあったりする。
「おおお、いかにもフランスやんかー」
などと言いながら久山はブラックチェリーをもりもり食べていた。決して高価ではない贅沢とでも言おうか。フランス人はそういう演出を暮らしの中に施すのが実に上手い。
さて、部屋に一旦荷物を置いた僕らはすぐにまた車に乗り込み、トゥールーズ市内へ食事に出かけた。既に午後9時近いのに表はまだまだ明るくて、夕方の5時くらいの雰囲気。この時期のフランスは日が長いとは聞いていたが、これほどとは思わなかった。車窓から夜の町をうかがうと、あちこちに掲げられたワールドカップ関連のポスターや横断幕が目に付く。車で走ること約10分。繁華街からはやや外れた静かな通りの「REX CAFÉ」に到着。扉を押して中に入ると、いきなりバカでかいカンガルーの人形が飾ってある。
「なんでやねん」
店内の装飾は、どういう訳かオーストラリア一色。後で聞いた話では、ここのオーナー(クロコダイルダンディみたいなカーボーイハットをかぶってレジに座っていた)は生粋のフランス人なのだが無類のオーストラリア好きで、趣味が講じてこういう店を作ってしまったのだと言う。なんや訳わからんなあ、と久山と言い交わしながら進むと、暗幕で仕切られた店の奥から、わっと歓声が聞こえてきた。奥は映画館のような雰囲気。大型のスクリーンには「フランス対南アフリカ」の予選中継が映し出されていて、客たちは大騒ぎでこれを楽しんでいる。テーブルについた僕らも、地元の人たちと同じようにスクリーンを見つめつつ夕食をとったのだが、心中なにやら複雑なものがあった。トゥールーズに着くなりオーストラリア風の店に連れていかれ、フランス対南アフリカを試合を目の当たりにしながらリブステーキを食ったりするなんて。
「わしゃもうわけわからんわ。原田、ウエイトレスの女の子の名札見てみ」
「え?何が」
言われて名札を見てみると彼女は「ソレン」という名前だった。僕はますます混乱して訳わからなくなり、思わず三波春夫に変身して「万国よさこい音頭」をハ~ンと歌いたくなってしまった。
食事を終え、スクリーン上でフランスが勝利するのを見届けてから表へ出ると、ようやく夜になっていた。腹も満ちたせいか、車に乗り込むなり猛烈な睡魔に襲われる。
「なあ、わしらほんまにフランスに来とるんやな」
久山の声がどこか遠くで聞こえた。

つづく

原田宗典

※美輪明宏さんを追悼する想いで、2015年に作家原田宗典さんが書いてくださったエッセイを再投稿しました。今回はその時久山が撮影した美輪さんの写真を新たに掲載しました。
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美輪明宏さんに捧ぐ…久山との旅 /フランスワールドカップの旅(1) 原田宗典

久山よ、あれからもう17年も経つのか。うそみたいだなあ。1998年6月、フランスワールドカップの旅、忘れられないよな。おまえも、あの旅は最高やったなーと言っていたもんな。
フランスワールドカップの話をするのには、まず最初に美輪明宏さんのお宅にお邪魔したところから話さなければならない。とても不思議なことなのだ。

当時、僕はある女性雑誌に依頼されて、短い大人の童話みたいなものを連載することになった。その第1回目は「嘘の女王」という話だった。ビジュアルはどうしますかと編集者に聞かれて、僕は久山の写真がいいと答えた。じゃあ何を撮るかという話になった時、僕の頭に浮かんだのは美輪明宏さんだった。頭の中には、「嘘の女王」を演じる美輪さんの姿が浮かんでいた。それを久山に撮ってもらおうと考えたのだ。
「嘘の女王」というのはだいたいこんな話だ。昔々あるところに嘘の女王がおりまして、彼女は一度でも本当のことを口にすると命を失ってしまう定めにある。何から何まで嘘で固めた「嘘の国」に住む嘘の女王。そんな彼女がある舞踏会で恋におちてしまいます。お相手は隣国「真実の国」の真実の王子。彼は一度でも嘘を口にすると命を失ってしまう定めにあります。そんな2人は恋におちて・・・まあ、だいたいそんな話だった。
この「嘘の女王」を美輪明宏さんに演じてもらって写真に撮る――それはごく自然なことのように思えた。しかしこの依頼を受けてくれるかどうかは誰にもわからなかった。たぶん断られるだろうなと思いながらも、一縷の望みを託して僕は手書きの原稿を送った。するとそれがよかったのか、2週間ほどして撮影OKの返事が来た。僕と久山は、小躍りして喜んだ。撮影場所は、都内にある美輪さんの自宅でとのことだった。僕らはますます喜んだ。だって美輪明宏の自宅へ行けるなんて!もともと美輪さんのファンだった僕はどきどきわくわくしながら撮影の日を待った。
その日は2月の寒い曇った日だった。僕と久山と編集者の3人は、都内某所の住宅街を地図を頼りに歩いていった。小雨が降ってきた。
「あれやないか?」
久山が指さす方を見ると、見たこともないサーモンピンクのジャガーが停まっていて、そのむこうに瀟洒な洋館が見えた。ピンクのジャガーに洋館――美輪明宏以外にこんな家には住めないし、こんな車には乗れないだろう。
僕らは3人共しゃっちょこばって玄関に近づき、呼び鈴を押した。家の中の遠くの方で「キンコン」と美しい鐘の音が響いた。いかにも美輪明宏の家の呼び鈴の音である。僕らは3人ともカチコチに緊張していた。やがて扉が中から開くと、そこにはエルキュール・ポワロみたいなマネージャーが立っていた。
「いらっしゃいませ」
来意を告げて中に案内されると、まず目に飛び込んできたのは、1枚の絵だった。それは19世紀末のアールヌーボーの画家タマラ・ド・レンピッカの絵だった。赤と黒を基調にした女の肖像画で、それはいかにも美輪明宏に似つかわしい絵に思えた。
「こちらでお待ち下さい。美輪はすぐ参ります」
僕らが通されたのは、豪華なシャンデリアが下がった応接間で、3人掛けのアールデコのソファが1脚置いてあった。その向かいには、肘掛の先がライオンの頭になっている巨大なひとり掛けの椅子が置いてあった。美輪明宏以外は座れないような椅子である。あとで聞いたら、その椅子は舞台で使用したものをそのまま家に持ってきたものだという。
「おい、すげえ椅子やな」
「大きい声を出すな」
「お、こっちもすげえな」
久山はすっかりカメラマンの本能に従って、応接間のあちこちを見て回っていた。緊張していた僕はそれを止めるのに必死だった。しかし今思い出してみると、さすが久山。相手が誰であろうと写真を撮る以上は決して臆することはないのだ。僕はそんな久山をいつも羨ましく思っていた。
やがて階段に足音が響いて、美輪明宏さんが登場した。
「ごきげんよう」
会釈しながら例の巨大な椅子に座る美輪さんの姿は、まるでお芝居の一場面のようだった。その手には僕の自筆原稿が握られていた。読んでくれたんだ。そう思うと気絶しそうなほど嬉しかった。僕と編集者が今回の連載の意図などを話してる間、久山はじっと美輪さんのことを観察していた。そしてものも言わずに立ち上がり、てきぱきと照明の準備をし始めた。どういう風に撮るのかあらかじめだいたい決めていたらしい。
「その椅子、すごくいいんで、座ったまま撮りましょう」
久山はそう言って、準備を整えると、手早くポラを切り始めた。
「今度は目をつむってもらえますか」
久山は気軽に色々と美輪さんに話しかけるので、傍にいた僕ははらはらした。けれど久山の言い方は、遠慮はないけど嫌味ではない。そういう風に話しかけられるのを美輪さんもむしろ喜んでいるようだった。
撮影時間は、およそ30分。あっと言う間だった。
その後30分くらい雑談を交わしたのだが、その時どういう話の流れだったか、フランスの話になった。美輪さんが旅したフランス、なかでもパリの話は面白かった。なにしろサルトルやボーボワールにも会ったというのだから驚きだ。僕はまだフランスには行ったことがない、と言うと美輪さんは意外そうな顔をして僕を見た。そして考えるより先に言葉が出てくるような口調でこう言った。
「あーら、そうなの。でも、あなた近いうちにフランスに行くわよ」
「え、僕がですか?」
「そうよ。必ず行くわ。私にはわかるの」
どうしてそんなことを言うのか美輪さん自身にもよくわからないらしかった。

美輪さんの予言が現実味をおびてきたのは、その2週間後のことだった。

つづく

原田宗典

※美輪明宏さんを追悼する想いで、2015年に作家原田宗典さんが書いてくださったエッセイを再掲載しました。続きも来月掲載します。ーTeam Shiromasa

Photo Gallery / Pandora’s Box-4


2013年2月26日撮影 - 久山の遺作「パンドラの箱」から。
病状を知った友人たちがプレゼントしてくれたライカ。久山はたいそう喜んで革カバーとストラップを付け、何度も何度も大切そうに触っていました。
– Team Shiromasa

Photo Gallery / Pandora’s Box-1

2013年2月14日撮影 ー「パンドラの箱」より

2013年2月13日。久山は抗がん剤点滴の後、銀座ライカにカメラを買いに行った。購入したのは「ライカX2 ポール・スミスエディション」という小さくてキュートなカメラ。世界限定1500台の特別モデルだ。
「このカメラは私にとって死んだ時に開けるパンドラの箱になった。私が死ぬ日までカメラの中身は決してPCには取り込まないと決めた。」と日記に記してある。Jpeg撮りっぱなしの久山の遺作スナップ写真。
これから少しずつUPしていきます。-Team Shiromasa