先日観た大好きなミュージカルの中で
「その人に受けた影響こそが1番の形見だ」というセリフがありました。
久山さんが教えてくださった事が私の中にたくさんある!と思うとものすごく心強い気持ちになりました。
久山さんが亡くなった時に咲いていた〈たんぽぽ〉は今でもずっと、何かあるたびに咲いてくれています。
本当に、いつも。です。
Photographer
先日観た大好きなミュージカルの中で
「その人に受けた影響こそが1番の形見だ」というセリフがありました。
久山さんが教えてくださった事が私の中にたくさんある!と思うとものすごく心強い気持ちになりました。
久山さんが亡くなった時に咲いていた〈たんぽぽ〉は今でもずっと、何かあるたびに咲いてくれています。
本当に、いつも。です。
内山です。
私はひとこちゃんのわりかし古めの友達で、久山さんとはそんなご縁で遊んでもらっていました。
だいぶ寒くなってきましたね。
こんな季節になると久山さんの作ってくれたお鍋を思い出します。
何年前の事だったのだろう?
ヒーちゃんが久山くんと暮らし始めて間もない時、久山くんと二人で会う事になった。
青山1丁目のだだっ広い大きなカフェに入ると、そのど真ん中に腰をずらしてソファに座って待っていた久山くん。いかにも久山くんらしい佇まいだったのだけどその時の彼の目が私は未だに忘れられない。。
妙に鮮明に私の脳裏に残っている。
久山さんが天国に旅立たれてから早3年ですね。
私は、久山さんからたくさんのことを学ばせてもらった一人です。
仕事のつながりでご縁を頂きましたが、久山さんはそんな私を「ただ一人の若者」として接してくれました。
よく「水上君うち来て飲もーやー。ビールとつまみ買ってきてなー」とお誘い頂き、人生相談に乗ってもらってました。
彼女に振られた時は久山さんの目の前で号泣したこともありました。。。でも、優しく受け入れてくれました。久山さんがいてくれたからすぐに吹っ切れたんですよね。
久山さんが病と闘っている時に言っていたことの中で、
「散骨」
と言うことを、私は伝えられていました。
なんせ、病院から退院してきて、必ずすぐに髪を切りに来る久山さん。
前にもここ☆に書かせていただきましたが、
常に「カッコイイ」にこだわっていたので、当然と言えば当然。
ある髪を切りに来た日に突然、
「今日、東急ハンズに寄って買ってきたんだよ〜〜」と。
「なにを?」と私が聞くと
「え??ミルだよ、ミル! 散骨する為に細かくしないといけないからね」と。
その頃から、「散骨をHAWAIIで・・」と言う久山さんの意思がありました。
久山さん、お久しぶりです。
仁子さんからshiromasa.comに投稿記事をとのお話いただいたとき、実は少しだけためらいました。久山さんや仁子さんのまわりには素敵なお友達がたくさんいらっしゃるのに、私でいいのかしらと。でも、せっかくなので受けちゃいました。図々しくてすみません。僭越ながら、久山さんにお便りさせていただきます!
この機会にかつての仕事ファイルをひっくり返してみましたよ。久山さんと初めて会ったのは、2008年5月。お名前だけは前職の頃から知っていたので、もっと前から知り合いの気分でしたが、初対面は今から7年前のことでした。
Shiro、もう2年経つんだね…。
初めて会った時、Shiroはオートバイで事故ってて、松葉杖だった。
次に会った時、ShiroはMonument Valleyで風邪ひいて寝込んだ。
その次に会った時、Shiroは悩んどった。
次の次の次に会った時、Shiroは病気になってた。
私が”久山君”という存在を知ったのはもう20年以上も前だけど、
初めてShiroに会ったのは確か8年程前だった。
私は、Hitobonが、Okuと呼ばれていたハチャメチャな大阪時代からの友達。
オートバイの教習所のロッカールームで初めて逢って、同類のにおい?を感じてから今に至ってる。
2012年10月20日
残された限りある時間と、彼の人生そのものとも言える写真活動。
久山は最後の大仕事に「現場でシャッターを切る」ことを選び、友人達に来てもらって大撮影会を催しました。
10時間以上ぶっ通しでシャッターを切り続けたその日から今日でちょうど3年。
久山が天国に旅立ってからもうすぐ2年になります。
私が久山と知り合ったのは、17歳の5月頃でした。
その頃の私は、母が亡くなり、また学校では謹慎になりと散々な時期でした。
3年で同じくクラスになり、久山の友人グループと話をするようになり、
久山と知り合いました。
それまで、顔と名前は知っていましたが、1学年に450人の学校でしたので
話をした事はありませんでした。
原田さんは、去年の9月から毎週かかさず自宅に来て「久山との旅」を書きながら、同時進行で執筆中の「メメント・モリ」を久山の祭壇の前で朗読していました。そして「久山が僕に力をくれた」と原稿用紙250枚のこの大作は3月に仕上がりました。