Works for Magazine – Hawaii

Happy birthday Shiro!

2005年6月7日 この撮影中に誕生日を迎えた久山にスタッフ全員がサプライズパーティを開いてくれたそうです。めちゃくちゃ楽しかった!と満面の笑顔で話してたなあ・・・。大好きだったHawaiiの海に散骨してから6年、今もこの海で楽しそうにふわふわと漂っているんだろうと思います。
-Team Shiromasa

10年目の311   廣瀬達也

 50歳を過ぎたおっさん二人が人の目もはばからず、それでもお互いの存在を少しだけ気にしながらもバレバレで「泣いてる?」とお互い苦笑しあったのは、3月も下旬にはいった頃のことだった。場所は東北・岩手県陸前高田の町を目前にし内陸部を縦断する高速道路から三陸海岸へと向かう国道を駆け下った小さな集落でのことだった。まだ海沿いにある陸前高田の町は、その気配さえ見せない山間部での出来事である。

 涙の訳は突如として目の前にして現れた。いままで見たこともない荒れ果てた家々の、道路の、鉄道の痕跡を目の当たりにしたことである。川を遡り山を登って津波が海もみえないところまでやってきていたのだ。至る所にいろんなものが散乱し、家々は壊れ、道路は亀裂が入り凸凹になっていて少し進む鉄路はレールが切れて一部がなくなり、一部はあらぬ方向に折れ曲がっていた。ありとあらゆるものが川に突き刺さった鉄路に絡まっていた。その上空の木の枝には無数のカラスが集まっていた。それでもまだそこが集落だと容易に判断できる痕跡はあったのだがそこに人の住んでいる気配を感じることはなかった。その想像を絶する光景が痛烈に胸を貫いては感情が揺さぶられ、堪えられなくなったのだと、10年の時を経ていまはそう思えるようになった気がする。


 いろんなところを一緒に旅することの多かった二人は、人の気配のなくなった集落跡に出会うこともけして珍しいことではなかったが、それでもそこに住む人々が立ち去ってから“自然と風化した”ものとは明らかに異なった世界がそこにあった。窓が枠ごと吹き飛ばされ揺れるカーテン、汚れてはいるけどまだ真新しい食器や日用品の数々、持ち主のいなくなった衣類・・・そのどれもが声にならない叫びをあげているようだった。地図をみればまだ海までは数kmの距離があるのに「これが津波の力なのか?」と確かめるように声を掛け合ったことを覚えている。しかし、それはこれから二人が目の当たりにする想像を絶する世界と遭遇するためのほんの序章に過ぎなかった。陸前高田の町に近づけば家も道路も鉄道線路も、川も・・・どれも見分けがつかないほどに人の営みが打ち砕かれては数々の、もの言わぬ無数の断片となって見渡す限り一面を覆っていたのだ。

 どちらからともなく「陸前高田へ行かないか?」と声を掛け合ったのは3.11から2週間ほど経った頃だった。何を用意していいかも、何を着ていったらいいかもわからないままシュラフと、求められれば分け与えられるよう少し余裕を持たせた食料と水を車に積み込んでとにかく北上することになるのだが、そもそものキッカケはさらにその16年前。1995年1月17日に遡る。
 その日大阪南部の友人宅にいた私は早朝に起きた。突き上げるような地震の揺れで飛び起きた。ほどなくかかってきた電話は、当時奈良に住んでいた、同じように飛び起きたのだろう久山からで「テレビ見てみいぃ、神戸が大変なことになっているぞ」というものだった。“大変”とは言っているものの二人ともまだ本当に“大変”だとは思っていなかった。だから「あとで行ってみよう」ということで一旦電話を切ったものの、次第に明らかになる被害の凄まじさに2度と「行こう!」という言葉はお互いに出せなかった。それ以来私には心の中に引っかかり続けていたものがあった、それは「行こうと思えばどうにかして行けたんじゃないだろうか?」「何ができるかわからないけど困っている人の何かの役に立つことがあったじゃないだろうか?」文章という生業が「何かの力になれたんじゃないだろうか?」という思いに苛まれ続けたのだ。久山の場合はそれが写真だったのだと、16年後に東北へと向かう、段差が続きなかなか速度の上げられない車中で延々と思いを伝えあったのが昨日のようだ。「あのときのような後悔はしたくない。だからとにかく行ってみよう!行くことでなにかできることがあるはずだ・・・」そしてそれから幾度となく東北から太平洋に沿って南下する時間を共にし“伝え続ける”こととなるのだった。

 行ってみれば報道とは明らかに大きく違った世界がそこにあることに何度となく気づかされた。その繰り返しが“目の当たり”にすることの大事さを教えてくれた。久山の写真が、その大事さをいつまで経っても風化させないでいてくれる。人は忘れることで新しい幸せを得ていくのかもしれないが、同時に“忘れないこと”で幸せにつながる戒めを心の中に秘め続けるのかもしれないな、と思えば、あのときの俺たちの旅もなにかの役に立っているんだよね、きっと。なぁ久山よ・・・。

そうかぁ・・・あれからもう10年かぁ。それでもあのときの、1,000年に一度とまで言われた崩壊した世界の光景と出会った人々の姿や言葉、そしてあのときの久山の涙、交わした言葉の数々がいつだって昨日のことのように蘇ってくるのは、なんでなのかなぁ・・・

廣瀬達也

エンボス / 原研哉

エンボスという紙の加工法がある。日本語では「空押し」とも言い、彫刻板を強くプレスすることで、文字や図像を精緻な起伏として紙の上に立ち上げる。印刷とは一味違った優雅な風情を生み出す効果があり、賞状や保証書など、一枚の白い紙に価値や思いを盛り込む手法として用いられることが多い。

岡山の高校で同窓だった写真家の久山城正は、高校を卒業して二十年以上が経過したある時、不意に上京して東京で仕事を始めた。同じく高校時代からの悪友、原田宗典と久山が親しかったこともあり、すぐに頻繁に会うようになり、久山の撮影した写真で、原田の小説の装丁をしたこともあった。原田の本を例外として、友人関係で仕事をする習慣を僕は好まないので、四つに組んで仕事をした記憶はない。しかし久山は男気を感じる写真を撮る人であった。勇壮とか猛々しいとかいう意味ではなく、自分の惚れ込んだ対象をけれん味なく愛そうとする、不器用な写真であったが、その率直さ、清々しさに、心の中をぽっと照らされるような作風である。どんな時も笑いを絶やさない男でもあった。撮影中の事故で骨折して入院している久山を見舞ったことがあったが、満面の笑顔で実に楽しそうに入院していた。

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【繋心】バックスキンとオレンジのライカ  イッコウ

ひーちゃんに手伝ってもらってミラノで展覧会したときのこと。帰りの飛行機が成田に近づいたら「空港にボーイフレンドが迎えに来てるの」って、ひーちゃん嬉しそうに言ってた。ミラノでもすごいカメラ持って写真パチパチ撮りまくってた。

そう言えばあの時、空港で初めて久山くんと会ったんだ。ひとこ姫を迎えに来た王子さまみたいだったよ。

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【繋心】 天国3年生のShiroへ  Hitobon

Shiro、天国へ旅立ってから3年経ったけどそっちはどう?

気がむいたときに好きなところへぴゅ~と一瞬で移動して、私たちとは違った世界で色んなものを見たり感じたりして楽しんでいるのかな?そこから見える景色はどんなふう?私たちの見える世界とはどう違うの?想像もつかない綺麗な景色?今どのあたりにいるの?

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【繋人】もう三年?まだ三年?   河野浩士

「早いものでもう3年」などと言いつつも、久山さんがあちらの世界に移住してから、じつは、たった3年とは思えないほど、いろんなことが、私には起きています。むしろ「えっ!まだ3年?」かもしれません。
たとえば、つい最近の出来事で言えば、今年の7月1日、この年齢で初めて子ども(娘)を授かって、ただいま腰痛と闘いながら子育て奮闘中。久山さんにも今年お孫さんができたそうですが、なんとうちの娘は同級生ということになるわけです。

それにしても、こうして何か嬉しいことがあるたびに、あるいは何かしんどいことがあるたびに「久山さんがいれば何と言うかなあ、一緒に酒でも飲めたらいいのになあ」と、いつもいつも思わずにはいられません。まあ実際に久山さんがいたならば、案外何も大した話なんぞせず、ただくだらない話を一緒にしながらダラダラ飲むだけなのかも・・・ですけどね。

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【繋人】 近況報告 いそえしんや

去る、本年9月19日に大学時代からの旧友が、
たぶん久山さんの近所に越していきました。
物静かで本や音楽、映画が好きな男です。
仲良くできると思いますし、いろいろと教えてやってください。
こうして少しずつ、こっちの友人が減っていきますが、
いずれぼくも近くに行きますので、それまで暫しお待ちあれ。

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