久山との旅 / 徒然なるままに-4 原田宗典

今日は、311のことについて書こう。

ご存知のとおり久山が撮った震災の写真はshiromasa311.comのほうで閲覧できるのでぜひそちらを見てください。もう5年も経ったけれど久山の写真をご覧になれば、あの日の記憶が鮮明に甦ってくる筈。日本中、いや世界中の人に見てもらいたい。そしてあの日に起こったことを10年先20年先まで語り継いでもらいたい。
さて、2011年3月11日午後2時46分、あなたはどこにいて何をしていましたか?久山は、なんと新幹線の中にいたそうです。当然新幹線は緊急停車し(大阪と京都の間だったらしい)車内は大混乱していた。その時たまたま久山はipadを持っていたので、それで情報収集して車内の皆に見せていたらしい。久山は、
「こんな大変なことが起きとるのになんでワシは新幹線の中やねん!」
とひとりで怒っていたそうだ。結局品川駅に着いたのは夜の12時近く。そこから地下鉄を乗り継いで渋谷に出、永福町まで歩いたそうだ。その時、どんなルートで帰宅し、途中でなにを見たかはわからない。だけどおそらく僕が見たのと同じような光景を彼も見たのではなかろうか。それは、例えば家に向かうものすごい人波、がらんとして何も商品が置いてないコンビニ、全部売り切れになっている自動販売機などである。
おそらく久山は翌日にでも被災地へ行きたかっただろう。さあ、ワシの出番や。と張り切っていた筈だ。しかし久山の望みはなかなか叶えられなかった。交通状況が混乱していた上、ガソリンもなかなか手に入らなかったのだ。テレビやネットのニュースを見ながら、イライラしている久山の顔が目に浮かぶ。

実際に久山が被災地を訪れたのは4月の半ばだった。友人のハイエースに寝袋やら食料やらヘルメットやらを積み込んで、オフロードのバイクまで積んでいったらしい。当時の被災地はまだ車が通れないような状態だったので、このバイクはすごく役に立ったそうだ。瓦礫の中をバイクで走っている久山の姿が目に浮かぶ。Shiromasa311.comで紹介している写真の多くは、そうやってバイクを駆って撮ったものだということを留めておきたい。すごい勇気と行動力だと思う。恥ずかしながら僕は東京にいて1ミリも動けなかった。
みんなもう忘れているだろうけど、あの年の4月はまだまだ大きな余震が続いていて、とてもどこかへ出かけようなんて気にはなれなかったのだ。もちろん福島の原発の事故も予断を許さない状況だった。そんな中出かけていったのだから、久山エライ、と言ってやりたい。

翌年、2012年3月11日に久山は震災の写真展を開催するつもりでいたのだが、その前の月に病気が発覚し展覧会の話は流れてしまった。文字通り命がけで撮ってきたのだから、悔しかっただろう。今にして思うと、どうしてあの時展覧会を強行開催するように勧めなかったのか。やれば出来たと思うのだ。そのことがすごく悔やまれる。
久山は闘病生活に入った。お見舞いに行った時に被災地の写真を見せてもらって、僕はすごく胸を打たれた。これはやはり日本人のひとりとして、一度は被災地に行ってみなければと思わせる写真だった。
「ほんならおまえ行ってくればええやん。現地のことはワシがよくわかっとるから、携帯でナビしたるわ」
そう言って久山は被災地の詳細な地図帳と数十枚の小さな紙焼きを渡してくれた。
2012年の9月、久山に背中を押されて僕は車に乗り込み、まず一関に向かった。久山が手配してくれた安宿に泊まり、翌朝、大船渡市を目指した。
それは、不思議な旅だった。久山が撮った被災地の写真を見ながら彼が辿ったのと同じように45号線を南下する。その途中で何度も連絡を取り合い、指示どおりに動いた。離れているけど僕はまるで久山の目になって移動しているようだった。
最初に訪れた大船渡市で僕は瓦礫の山と3階部分までが津波にさらわれた建物を見て驚愕した。そのことを報告すると久山は、
「まだまだそんなもんじゃないで。陸前高田に行ってみ」
と言うのだった。行ってみればわかると言われ、車を飛ばして陸前高田に入った。僕は言葉を失った。地形のせいなのか、陸前高田市の被災状況は大船渡市とは比べ物にならないくらい酷いものだった。見渡すかぎりの瓦礫の山。津波は川に沿って遡上し、8キロ先まで被害が及んだという。海辺に建つホテルは4階部分まで波にさらわれ、がらんどうになっていた。驚いたのは、周辺に散らばっている太い鉄骨がいずれもぐにゃぐにゃに曲がっていたことだ。10メートルくらいの鉄骨がものすごい力で折り曲げられ、知恵の輪のような形になってころがっている。
「橋を渡ってな、川上の方へしばらく走ってみ。左っかわに黄色いハンカチが旗みたいにぶら下げてある場所があるから」
そう言われて行ってみると確かに黄色いハンカチがたくさんはためいているのが見えた。そこからもう一度久山に電話をすると
「そこからな、もうちょっと右の方へ歩いていってみ。石段みたいなのがあるやろ。それ登っていってみ」
「了解」
言われたとおりの石段がそこにあった。登っていってみると途中で土砂が崩れて階段が消えていた。
「そこが命の分かれ目やったんや。そこより上に行った人は助かったけど、そこより下にいた人たちは津波にさらわれたんや」
僕はその場所から改めて陸前高田市の瓦礫の原を見渡した。こんな高さまで津波が来たのか。とても信じられなかった。久山が写真を撮った時点から1年半が経過していたが陸前高田の復興は全然進んでいなかった。この後訪れた気仙沼や南三陸、石巻などは大分復興が進んでいたが、陸前高田は酷かった。
海岸沿いの45号線を車で走ると、ところどころにポールが立っていて、『津波到達点』という表示が出ている。それは見上げる程の高さで、15メートルくらいあったろうか。道端のところどころには絞った雑巾のようになった車が放置されていた。次々に目にする風景はいずれも写真に撮ったとおりだった。それらのいちいちに驚いて電話をすると、久山は
「そやろ。酷いやろ」
とまるで自分が津波を起こしたかのように言うのだった。
この不思議な旅は気仙沼で一泊、石巻で一泊し、最後に仙台の風景を見て僕はへとへとになって帰京した。
震災の1年半後にただ見て回っただけでもこれだけ疲れたのだから、当時写真を撮りながら被災地を回った久山の苦労はいかばかりであったろうか。それを思うと頭が下がる。
だからみなさん、久山の写真を見てやって下さい。そしてあの日のことを決して忘れないで下さい。

原田宗典

>東日本大震災-津波 写真家・久山城正が遺した風景

 

久山城正

2 Comments

  1. 久山さんの写真拝見しました。私はあの日家に1人でいたのですが、妊娠後期に差し掛かっていた時期で、大きな揺れにとても不安な思いをしたのを覚えています。久山さんの写真からあの日の被害の凄まじさがこれほどだったのかと気付かされました。あれから5年たちますが、久山さんの写真に写っている光景ができるだけ復興されていることを願っています。

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    1. ちいこさま
      いつもご覧いただきありがとうございます。妊娠されてたのですね、不安で怖かったかと思います。お子さんは今4歳半くらいですか?一番かわいい頃ですね~!
      あの時の記憶を忘れてはいけないと思い久山の写真を発信し続けています。これからもよろしくお願いします。 
      Hitobon

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