久山との旅 / フランスワールドカップの旅 (3) 原田宗典

6月13日。
目覚ましを8時半にかけていたのだが、それが鳴り出すよりも早く、自然と目覚めてしまう。時差ぼけのせいだろうか。窓を開け放つと、外は絵に描いたいたようないい天気である。とりあえず顔でも洗うか、と歯ブラシを手に洗面所に赴く。歯磨き粉は拝借するつもりで、洗面台の周辺を探してみたところ、これがなかなか見つからない。なにやら怪しげな形をしたビンやスプレーやチューブが沢山並んでいるのだが、いずれのラベルもフランス語で記されている為に、それがなんなのか見極められないのだ。しばらく悩んだ後に、「わからない」ということだけはわかったので、中からもっとも歯磨きペーストらしいデザインだと思われるチューブを選び、中身を歯ブラシの上にうねうねうねーと絞り出してみる。ペーストは透明で、鼻を近づけると爽やかなミント系の香りがしたので、
「やっぱこれか」
と安心しきってわっしわっしと歯を磨き始める。ところが約5秒後、口の中になんちゅうかこう宇宙的な味わいが広がり始めた。今までに味わったことのない実に不条理な味。しかもやけにべたべたしていて、納豆で歯を磨いているような感じである。すぐに吐き出して口をゆすいだが、歯の裏側や舌の根のべたべた感は消えなかった。改めてチューブの裏面の説明書に目を凝らすのと同時に、僕はげげげとのけぞってしまった。そこには、
「こんなふうに髪をかきあげながら付けるざんす、シルブプレー」
とでも言いたげな仕草をしたショートヘアの女性の線画が描かれていたのである。どうやら僕は髪の毛をがっちがっちに固めるジェルで歯を磨いてしまったらしい。フランス滞在第一日目の朝からいきなりガチョーンである。
「ううう、なんだか口の中に毛が生えてきそうな気分・・・」
などと呟きながらもう一度ベッドに戻ってふて寝を決め込んでいると、そこへ朝食を済ませた久山が現れ、
「ええ天気やでー原田。表へ出てキャッチボールでもせんか」
と誘いかけてきた。実はこの時、僕と久山は申し合わせてグローブとボールを持参の上、フランスを訪れたのであった。サッカーのワールドカップの旅になぜ野球の道具を?と不審に思われるかもしれないが、当時僕は「西早稲田キャッチボール連盟」という大変立派な組織(会員数3名)の副理事を務めるほどのキャッチボールマニアであった。しかし近年は連盟の活動が開店休業状態にあったので、ここらで景気づけの意味も込めて海外活動してみっか、という心積もりであった。初日からいきなり活動するとは思わなかったが、僕は久山の誘いに応じてグローブとボールを手に表へ出た。
「ほんまにええ天気やな!」
僕らはアパルトマンの前にある公園の中にちょっとしたスペースを見つけ、早速キャッチボールを始めた。木漏れ日の中、青空を背景にして白球を投げ合う。僕の右手、公園の片隅の砂場に5歳くらいの金髪の男の子がしゃがんでいて、こちらを不思議そうな顔で見やっている。その好奇心に満ちた視線はくすぐったく、妙に心地よかった。
「ええ気持ちやなー」
のどかな、ほがらかな空気が僕と久山を包み込んでいる。キャッチボールなんて、なんにもならない無駄なことをしているとはわかっていながらも、不思議な充足感に包まれた僕は、
「あーいいな・・・」
と口に出して呟いてしまった。青空と木漏れ日、弧を描く白球と革のグローブの小気味よい響き、そして真正面にいる久山の笑顔。まるで一遍の詩の中に自分達がいるような気がして、ちょっと照れくさかった。
昼過ぎ、車が迎えに来て、僕らは試合会場のスタジアムを下見に出かけた。スタジアム周辺には、数多くのチケット難民やアルゼンチンのサポーターがうろうろしていて、どこか殺気立った空気が漂っていた。チケットの手配はまだつかなくて、I澤嬢とブリス君はここから別行動となった。1時ごろ、K林君の携帯にパリにいる同僚から電話が入った。今や、日本対アルゼンチン戦のチケットは1枚25万円で取引されているという。その値段は、翌日の試合直前まで上がり続け、最終的には50万円出して偽のチケットを掴ませられた人まで出るほどだった。
もう大変な騒ぎだった。「ワールドカップ熱」とでもいうのだろうか、誰もかれもが熱に浮かされていた。
スタジアム見学に行った後、2時くらいから小雨が降り出した。その雨を避けるべく、僕らは通りがかりの小さなレストランに入った。K林君と久山はもう少しロケハンしてくると言って店を出ていってしまったので、計らずとも僕はひとりになった。窓際のテーブルについてとりあえず飲み物だけ注文すると、思いがけず背後から声をかけられた。
「ジャポネ?」
日に焼けた中年の美男子で、カタコトの英語とフランス語と日本語を駆使してなにごとか伝えたいらしい。こちらもカタコトの英語とフランス語と日本語で答えるのでちっとも話しが見えてこない。身振り手振りを交えて、15分くらいかけてようやく話の内容が見えてきた。彼はだいたい以下のようなことを言っていた。
「君は日本人。私は日本すき。私はここに日本対アルゼンチンのチケットを持っている。私はトゥルーズで子供たちにサッカーを教えている。だからこのチケットを持っている。あなたはこのチケットがほしいですか?」
手渡されたチケットを見ると確かに日本対アルゼンチンと記してある。値段を聞くと、日本円で2万円くらいの金額を彼は口にした。あまりにも安いのでちょっとためらったが、結局僕はそのチケットを買うことにした。お金を払うと彼はさっさと店を出ていってしまい、そこへ入れ替わりに久山とK林君が戻って来た。事情を話すと久山は、
「偽モノちゃうんかー」
と言って疑いの目を向けてきたが、K林君は
「いや、これ本物ですよ」
と言って認めてくれた。まったく奇跡である。
翌日、試合当日になってそのチケットが本物であることが証明された。しかもスタジアムへ入ってみると、それは有り得ないほどいい席であることが判明した。なにしろ1階の最前列――アルゼンチンのベンチ側の1番前の席だった。バティステュータの背中に触れるほどコートに近い席だったのである。久山とK林君のチケットは試合当日までになんとか手に入れたものの、だいぶ後ろの席だったと思う。僕は写真を撮る久山に譲ってやればよかったなと思ったが、スタジアムに入ってしまってからではもうどうしようもなかった。
3万7000人収容のスタジアムは、3万7000人以上の観客で膨れ上がっていた。最前列の僕は、自分の後ろで3万7000人の観客が興奮しているような気がして足が震えた。
イタリアの映画監督パゾリーニは、大のサッカーファンで、サッカーのことを詩に例えて表していたそうだ。曰く「今日のあのプレーには詩があった」などという具合に。僕はサッカー初心者だからあまり偉そうなことは言えないが、あの日の日本対アルゼンチン戦はまさに「詩」のようであった。神が舞い降りたとでも言うのだろうか。サッカーというのはまるで神が仕組んだかのような奇跡的なプレーが起きるものだ。これに比べると、例えば野球なんかは「詩」ではなくて「物語」に近いものではなかろうか。今にして思うと僕が最前列のプラチナチケットをたまたま手に入れたこと自体がひとつの奇跡、ひとつの詩のようなものだった。

つづく

原田宗典

※掲載写真は、ホコリを被っていたポジのベタ焼きをスキャンしたものです。このクオリティが限界・・・
久山さんお許しを! -team shiromasa

7 Comments

  1. 子供の頃リンスとシャレこもうとしたらバスマジックリンだったことがあります

    いいね: 1人

  2. プレミアチケットがそんな形で手に入るとは!
    原田さんて不思議体験がすご~く多い方に思えるのですが、そういう時の久山さんのリアクションはどのようなものだったのか気になってしまいますね。特に驚かず自然に受け止めていたのかしらん?

    いいね: 1人

    1. URさん
      ほんとに不思議ですよね!原田さんがここに書く話は本当にあった思い出話ですからスゴイ。実は久山もすご~く面白い体験が多い人で「オレ、めっちゃ引きが強いネン」っていつも言ってました。どうも2人揃うと大変なことになるみたいです。久山のリアクションのこと、原田さんに聞いておきます! Hitobon

      いいね

    2. URさん
      チケットを手に入れた時のK林君はすごいリアクションだったらしいのですが、久山は普通~だったそうです。2人にとっては引きの強い色んなことの連続なのでそんなものだったのかもしれませんねー。
      Hitobon

      いいね

      1. Hitobonさん
        ご返信ありがとうございます。お二方くらいまで行くと(!?)、もはや驚くようなことではないのでしょうか・・・。しかし、そんな自然な振る舞いが好ましく思えてしまいます。
        アップされた続編の「菓子パンみたいな村」にも、お腹を抱えて笑ってしまいました!

        いいね: 1人

  3. Hitobonさん
    お返事、どうもありがとうございます!

    「引きが強い」って、いい言葉です(笑)!
    実は私もめっちゃ・・とはいかないまでも引きが強い方で、友人は驚くことが多いのです。
    しかし原田さん+久山さんは「引き」の最強タッグみたいですね。
    以前のエッセイの九州温泉旅行の話といい、シャーマンの要件を満たした(?)久山さんの面白体験も凄そうです~。

    いいね: 1人

コメントを残す