久山との旅 九州温泉旅行 (2) – 原田宗典

部屋に帰ると、奥の間に2人分の床がのべてあった。寝るしかない、といった風情である。ひとむかし前の和風の旅館の夜には、この「寝るしかない」と思わせる風情が多かれ少なかれ感じられたものだ。僕も久山も、その風情に素直に従って、すぐに寝支度にとりかかった。糊のきいたふとんの中にもぐりこんだのは、僕の方が先だった。
「ほんなら。おやすみ」
上の方で久山の声がして、部屋のあかりがふっと消えた。目を開けてみても何も見えない。真っ暗闇――その底の方で僕は一瞬、うとうとし始めた。
と、突然、何者かが僕の左手首を掴んで、ぐいっと引っ張った。その力は、どこか獣じみた気配を漂わせていた。腕を掴まれたとたん、僕の体は金縛りの状態に陥っていた。
「が・・・」
闇の底で一声うなったきり、僕の体は1本の棒になったように固まり、全く身動きが取れなくなった。
「助けて・・・・・・助けて」
足元で声がして、また左腕がぐいっと引っ張られた。背中に寒気がぞっと走って、
「ひっ・・・」
一声僕は悲鳴をあげた。と、僕の右側で人の動く気配がして、次の瞬間、部屋の明かりがぱっとついた。
「どないした?」
心配そうな久山がそう尋ねてくると同時に、僕の体を締め付けていた金縛りが、ふっと解けるのを感じた。
「い、いま、誰かが・・・」
僕は声を裏返して訴えた。
「左手を引っ張った・・・」
やっとのことでそれだけ言うと僕はわれに返っていた。すると久山は、ごくりと唾を飲み込んで、
「今な、おまえがウーウー言い出す前にな・・・わしの枕元とお前の足元で誰かが話す声がした」
「なんて?」
「わからん。日本語かどうかもわからん」
「女か?」
「それもわからんけど・・・いや、お前の足元でしゃべったのは女だったな」
「だよな。オレもそう思う。なぜだかわからないけど手を引っ張ったのは女だった。間違いない」
「ちょっと・・・」
久山は急にこわばった顔つきになって、僕を目で制した。彼の意識は、目の前の襖の向こう側に集中していた。そこには、玄関から入ってすぐの6畳間がある。最初に入った時、なんだか薄暗いなと感じた部屋である。もちろん誰もいる筈はない。がらんとした和室――襖をがらっと開ければそれを確かめられる筈だった。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
しかし、僕も久山もその扉を開ける気にはなれなかった。それどころか身じろぎも出来ずに、暫く互いの顔色を窺いあっていた。
襖の向こうに誰かがいる・・・。
それはもう確信に近い予感として胸にせまってきた。今にも襖が向こうから開けられて何か得体のしれないものが飛び出してくるかもしれない――全身に鳥肌が立った。僕も久山も、本当は口に出して襖の向こうに誰かがいると感じることを確かめ合いたかったのだが、怖くて2人とも口がきけなかった。
「な?」
「うん」
やっとのことで短い言葉を交わしたのはだいぶ時間が経ってからのことだった。閉じた襖の前にのべてある布団の上に座り込んで、怖ろしさにじっと耐えている時間は、ものすごく長く感じた。実際には、5分か長くても10分くらいだったと思う。
「どうする?」
「どうするってどないすればいいんや」
「どうしよう」
「どないしようもないやんか」
僕らはおたおたしてしまって、内容のない会話をひとしきり交わした。なにしろ襖の向こうの気配は、消えるどころかますます濃厚になってきていた。
「あちゃー」
暫くして久山が何か大事なことを思い出して、驚嘆の声をあげた。
「しもたー、写真の機材が・・・」
彼の仕事道具一式を襖の向こうの和室に置いてきてしまったというのだ。
「だいじょうぶやろか・・・?」
「よせよせ。たかが機材じゃないか・・・」
「たかがっておまえなあ・・・」
「いや、でも実際問題としてだな、おまえ、この襖開けられるか?」
「・・・そりゃ無理やな」
「だろ? 開けられないよ」
僕は出来るだけ襖のほうを見ないようにして話した。
時計を確かめると深夜の0時過ぎだった。
黙っていると、表の雨音がきわだって聞こえてくる。やがて久山は、そうや、と言って立ち上がった。
「エロや、エロ。エロビデオ見よ」
「それは・・・なるほど、いいかもしれない」
「これは100円入れるやつやな」
「ああ、じゃあこれ。100円」
久山は有料テレビに100円を投入して、電源を入れ、チャンネルを2に合わせた。
恐怖に対抗する為にエロを持ってくるというのは、ホラー映画の常套手段ではある。しかし本当に怖い目にあっている最中には、どんなエロを見せられても、気もそぞろで何も感じないものである。
「うげえ・・・」
やがて画面が明るくなってきて、女の激しいあえぎ声と同時に濡れ場が映し出されると、久山は声をあげた。
「なんやこれ? 気色わるう」
テレビのカラー調整が狂っていたのか、画面には気色の悪い映像が映っていた。絡み合う男女の裸がそれぞれハレーションを起こして、奇妙な色に彩られていた。女のあえぎ声もだんだん獣じみて聞こえてくるのが僕らの恐怖心をあおった。まるでこの世のものではない交わりを見せられた気分だった。
「あかーん」
そう言って久山がすぐにテレビの電源を切ったのは賢い選択だった。もう少し見ていたら何かとんでもないものが画面に映し出されていたかもしれない。
「こういう時、テレビとか携帯とかに影響が出やすいんや」
「そうなのか? 電波が乱れるのか?」
「わからんけど、今までいっつもそうやってん。なんか怖いなーと思ったらたちまちテレビがぷつっと切れたり、携帯が通じなくなったりするんや」
「そうか・・・地磁気が乱れるとか、そういうことかな」
「理屈やのうてわしゃ経験でものを言うとるんやから」
「いずれにしてもあれだな、よこしまな考えは抱かないほうが良さそうだな」
「それは言えとる」
僕らは2人同時に襖の方を見た。やっぱりまだ何かがいる。僕らはぞっとして目を伏せた。
「掃除しよ」
ひとりごとのようにそう呟いて、久山はあたりを片付け始めた。僕もすぐにそれを真似て、あたりを掃除し始めた。
幽霊は綺麗好き・・・なのかはわからないが、ちらかっているよりもきちんと片付いているほうが部屋の為にもなる、と思ったのである。僕らは自分が敵意を持っていないこと、この部屋に対してもなんの悪意もないことを必死でアピールするかのようにせっせと部屋の中を掃除した。
「やべー・・・わしゃ小便しとうなってきた」
室内をひとしきり掃除し終えると久山はふとそうもらした。実は僕も同様だったので、「うん」と頷いてふと時計に目をやった。1時15分だった。
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トイレは南側の障子を開けてL字型の廊下を行った先にあった。僕らがためらいを覚えたのは、そのトイレの先、廊下のつきあたりに例のなんだか怖い感じのする内風呂があったからだ。この部屋に案内されたとき、一番最初に「怖い」と感じたあの風呂場だ。
「おい、一緒に行こうや」
「うん、そうだな」
僕らは互いに相手を頼りにして立ち上がった。行くとなると、急に尿意が募ってくる。この「尿意」というのもまた不思議なものである。原始的な感覚とでもいうのか、逆らえないものがある。僕らは2人共、この尿意に促がされて、立ち上がるとすぐに障子戸を開けた。
あかりがともっているのに、どこか薄暗い廊下が見える。
外の雨は激しくなってきた。
僕らは一瞬、互いの顔を見交わして、目と目で意思を確認しあうと、並んで廊下を歩き出した。廊下は、部屋をL字型に囲むようにしつらえてあり、すぐに行き当たると右に曲がっている。その角を曲がると・・・。
薄暗い廊下の突き当たりには、変に粗末なアルミ製の浴室ドアが見える。その手前、左側の壁に見える木製の扉がトイレだった。
「すまん、わしゃ先に・・・」
切羽詰った声で久山はそう言って先に用を足した。僕はひとり、廊下の曲がり角のところに突っ立って、ただじっと待っていた。もちろん突き当たりの浴室ドアの方は見たくないから、あらぬ方に視線を泳がせていた。
外の雨音が、急に鮮やかに体に染みこむように聞こえてくる。
足元がスースーして、妙に寒気がした。僕はしきりに背後を振り返ってそわそわしていた。なんだか誰かがすぐ後ろにいるような気がしたのだ。何度もそうやって振り返って見ているうちに、廊下の真反対のつきあたりの壁に置いてある何かが、ぼんやりと見えてきた。そこには古い和風の鏡台が置いてあった。鏡の面には、着物の生地で作ったらしい覆いが被せてある。それが為に一瞬、和服の女性の後ろ姿に見えて、僕はぎょっとした。
考えてもみてもらいたい――L字型の廊下の曲がり角に僕は立っていて、一方の突き当たりには静まり返った浴室のアルミドア、もう一方の突き当たりには怪しげな鏡台が見えるのだ。それはもう生きた心地がしなかった。
知らず知らず僕は歌を口ずさんでいた。何の歌だか自分でもわからないけど、怖くて黙っていられなかったのだ。やがて水洗の音がして、用を足した久山がトイレから出てきた。
「お先にすまんかったな・・・どうぞ」
そう言われて、僕は訳のわからない歌を口ずさみながらトイレに入った。用を足す間も、水を流して出るときも、ずーっと歌を口ずさんでいた。魔よけの呪文みたいなものだろうか。効いたかどうかはわからないが、出てみたら、久山も同じように歌を口ずさんでいた。
久山は、僕が出てきたのを確かめると、先にたって、元いた和室へと戻って行った。後について行くと、廊下の突き当たりにある例の鏡台が嫌でも目につく。僕は目を伏せて、小走りになって、部屋に引き返した。
久山は、自分の布団の枕元に、あぐらをかいて座っていた。腕組みをして、例の襖の方をじっと見据えている。つられて僕も、あんなに見たくなかった襖の方をふと見やった。
「あれ?」
僕は首を傾げた。何か、様子が違うのだ。様子というか空気というか・・・言葉では上手く説明できないのだが、とにかく今さっき尿意に促がされて部屋を出たときとは、何かが明らかに違っていた。僕は障子戸をそーっと閉めてから、久山の隣に行って腰を下ろした。2人ともしばらく黙って、室内の変化を感じ取ろうと気を凝らしていた。やがて久山の方から先に口を開いた。
「なんやわからんけど、部屋の中が明るうなったような気がせえへんか?」
「そうだな。なんかさっきと違うな」
僕らは低い声でささやき交わした。その際、久山の傍らにある置き時計に目を留めた僕は、
「あ!」
と自分でもびっくりするくらいの声をあげてしまった。
時計の針が5時を指していたのだ。
今さっきトイレに向かう直前に確かめたときは、1時15分だった筈だ。
「なんや? どないしたん?」
久山に尋ねられても、僕はしばらく口が利けなかった。呆然として置時計を見つめていると、その視線の先をたどって、
「えー?」
久山も声をあげた。僕らは顔を見合わせると、どちらからともなく、くすくす笑い出した。ランナーズハイみたいなものだろうか。人間というのはあまりにも驚くとハイになって、なんだかおかしくてたまらなくなるのだ。僕らは笑いながら、
「うそや!うそや!」
「神様!許してください!」
などと嬌声をあげて身もだえした。そうやってひとしきり騒いだ後、久山が言った。
「襖のむこう、おらんようになったと思わへんか?」
見ると、それはもうただの襖にしか見えなくて、あの恐ろしい気配がすっかり消えていた。
「今なら襖、開けられるやろ?」
「ああ、大丈夫だな」
僕らはにじり寄って、いちにのさんで2人同時に襖を開け放った。
がらんとした6畳間――中央に和机が置いてある。もちろん誰の姿もない。久山の大事な撮影機材は、その和机の傍らにまとめて置いてあった。僕らはほっと安堵して顔を見交わし、照れ笑いを浮かべた。
いつの間にか雨は止んでいた。

原田宗典
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3 Comments

  1. ああ、原田さんの文章だ・・。
    以前に八ヶ岳で霧にまかれ、同じような体験をされたエッセイを書かれていましたね。
    (私事ですが、似た経験があって強く印象に残っています)

    長い間、原田さんが新たに書かれたものが読みたくて折に触れて検索したりしていたのですが
    その中で、こちらのサイトを見つけました。久山さんとの温泉旅行も、本で拝見したことがあります。
    このような裏話があったんですね。読めて嬉しいです。ありがとうございます。

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  2. 旦那、ホンマに字をよまない人間でして。
    人生で初めて、読み切ったの原田さんの本でした。

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