久山との旅 長野パラリンピック-3 -原田宗典

開会式の翌日から、僕と久山は精力的に競技会場を取材して回った。移動は、基本的にはプレス用のバスだった。初めはプレスパスが1枚しかないので、ドキドキだったが、運転手さんがいちいちそれを見もしないことがわかると「なーんだ」と安心して、気楽に乗り込むようになった。

最初に訪れたのは、アルペンの競技会場だった。会場に着くと、僕と久山は別れて、それぞれ勝手に取材するのがいつものやり方だった。アルペン会場では、久山はできるだけ選手に近いところから写真を撮ろうとして、急な坂道をずいぶん上の方まで登って行ったらしい。一方僕は、ゴール付近に設えられたスタジアムの観客の中にいた。



アルペン競技は、立位と座位の2種類があった。どちらも障害の度合いによってクラス分けがなされているのだが、例えば立位で片足のスキーヤーが滑ってきたりすると、危なっかしくって「転ぶんじゃないか」とはらはらさせられた。会場には、そういう選手が転ぶのを心配している気配と、期待している気配が入り混じっていた。そこには開会式の会場で感じられた、選手と観客との一体になった情熱のようなものが感じられなかった。もちろん選手たちは必死で競技に取り組んでいたが、それを観る観客たちの視線にはどこかなまぬるいものが感じられた。最初のうちは、選手がゴールすると盛大な拍手がわきあがっていたが、4人5人と競技が進むにつれ拍手はまばらになっていった。僕を含めて観客たちの多くは、徐々に退屈していったのだ。冷たいことを言うようだが、そこには競技としての歴史の浅さが感じられた。オリンピックに比べると選手同士の競り合い、レースとしての面白さがなかったのだろう。競技としての見せ方にも、問題があったと思う。僕が観戦した位置も悪かったのだが、場内に流れるアナウンスの伝え方も酷く稚拙で、どの国の誰がいつスタートを切ったのか、途中どんな風に滑っているのか、スタジアムからは何もわからない。僕を含めて観客たちはただ次々と滑り降りてきてゴールする選手たちを眺めるだけなのだ。だからどこを楽しんで観たらいいのかわからないまま競技は進んで行くのだった。
競技を観ながら僕は日本人の2大悪癖についてぼんやりと思いを巡らせた。ひとつは「島国根性」、もうひとつは「判官贔屓」である。島国根性はすなわち日本人以外、健常者以外を差別する気持ちであり、判官贔屓はすなわち「弱者」だから応援してやるという、おごり高ぶった気持ちである。この2つの気持ちが観客の中にも、僕自身の中にも渦巻いているのが感じられた。
「これはレースとも、ゲームとも言えんもんやな」
と後で落ち合ったとき、久山も言っていた。
「そうだな。楽しんで観たらいいのか、真面目に観なきゃいけないのか、観る方はとまどってしまうよな」
「そやな。シャッターを切る瞬間にも、ちょっとしたためらいがあるんや」
僕らは上手く言えない何かもやもやしたものを胸の中にわだかまらせたまま帰りのバスに乗った。

その翌日は、選手村にG島君を訪ねた。彼はドイツチームの通訳を担当していた。前日アルペン会場で感じた、もやもやした気持ちを訴えると、彼は笑ってこう言った。
「そんなの感じたままに観ればいいじゃないですか。拍手したけりゃ拍手して、つまんないと思ったらブーイングを飛ばせばいいんです。原田さん、あなた何か勘違いしてるんじゃありませんか。足が無かろうが腕が無かろうが、嫌なやつは嫌なやつだし、いい人はいい人なんですよ」
その言葉に、僕は胸を衝かれる思いだった。久山は、そういう風にずけずけものを言うG島君のことがすっかり気に入った様子だった。
確かにG島君の言うとおりだった。話をしている最中に紹介されたドイツ人のアイススレッジホッケーの選手は、両脚が無くて車椅子に乗っていたが、上半身だけでも僕と同じ位の背丈があった。両腕は僕の太ももより太く、まともに喧嘩しても絶対負けると思えるほどの体格で、実に朗らかないい男だった。
「オレの試合をぜひ見に来てくれ」
とその大柄なドイツ人選手が言って、僕と久山はもちろん行くよと約束した。
ところが翌日から2日間、僕は欝の気配が濃厚になってきて、動けなくなってしまった。久山はそんな僕をホテルに残してアイススレッジホッケーの試合をひとりで観に行ってくれた。
「いやー、迫力あったで。アルペンとは大違いや。リンクのすぐ近くで見られたから、選手と選手のぶつかり合う音まで生々しく聞こえて、ものすご面白かった」
観戦から帰ってきた久山は明るい声でそう教えてくれた。

大会4日目のその日、僕と久山は長野駅から最も遠く離れた丘陵に設けられたクロスカントリーの競技場を訪れた。共に低血圧で早起きが苦手な僕たちは、互いにモーローと励ましあいながら駅前から会場直行のバスに乗った。知らぬ間にうたた寝をしているうちに、僕らは一面雪に覆われた山と丘と畑しか見当たらない場所に到着していた。普段なら、牛も見向きもしないようなこのなんでもない風景の中を、バスから降りた人々が黙々と歩いてゆく。その後について暫く歩くと、ようやくクロスカントリー競技場の会場入り口が見えてきた。切符売り場の前で、僕と久山は、
「じゃあまた後で」
と言い交わして、一旦別れた。一緒にいて、同じものを見たってしょうがない。
僕たちは互いに自分なりの「真実」のようなものを、この大会の最中に見つけたいと願っていた。
さて実際に観戦してみるとスキーのクロスカントリーという競技は、これ以上に過酷なスポーツはないのではないか、と思わせるものであった。簡単に言うと、それは「スキーのマラソン」である。コースのアップダウンが激しく、ただでさえ血へどを吐くような苦しい競技なのだ。にも関わらず、果敢にも多くの身障者たちがその過酷さにあえて挑もうというのだ。プログラムを見ると、競技は同じクロスカントリーでも、選手の障害の具合によって、かなり細かいクラスに分けられているようだった。
僕は、70歳になる現役の車椅子アスリートのお婆さんが、腕の力だけで急勾配の坂道を登っていこうとする瞬間の、必死の形相を間近に見た。はたして自分は、かつて一度でもあんな必死の形相をして、何かに取り組んだことがあったろうか。と僕は自分に問いかけたりした。
やがて競技も後半となり、ブラインドクラスの選手たちの出番を迎えた。
ブラインド、つまり目の見えない選手たちによるクロスカントリー競技である。もちろん単独でコースを滑るわけではなく、選手たちには必ずひとりの先導者がつく。ブラインドクラスの選手たちに位置を知らせるために、先導者は常に「はい!はい!」と声を上げ、時にはコースの状態についても教えてやる。それは大変な重労働だ。聞けば、ノルウェーやフィンランドなどの北欧諸国の場合、この先導者という役割は、各国のオリンピックのメダリストたちがボランティアでやっているのだという。なにのために? 誰かのために。彼らはそれがメダリストとしての当然の行いであるかのように、ひっそりと裏方にまわって、ブラインドクラスの選手たちを先導するのだ。先導者の掛け声は、その国によって随分違う。どこの国だろうか、「あっし、あっし、」とうめくように言うのもあったし、「ふっしゅッ、ふっしゅッ、」と息音だけで位置を知らせる声もあった。
長大なコースの中でも、最も選手たちを間近で見やすく、応援も届きそうないわゆる「ホットコーナー」とも呼ぶべき場所が見つかって、僕はそこへ向かった。近づくにつれて随分たくさんの観客がその一帯に群れているのがわかった。と、そこへチャイムの音が響き渡り、案内の放送が入った。
「皆様、本日はご来場まことに・・・」
と、型どうりの挨拶があった後、そのアナウンスは意外なことを求めてきた。
「・・・只今コースではブラインドクラスの競技が行われております。ブラインドクラスの選手たちは、前を行く先導者の声だけを頼りに滑っております。したがいまして皆様、応援の際には、ぜひお声を出さないよう、お願い申し上げます」
そんなアナウンスが会場内に響き渡った。なるほど盲目の選手達にとっては、「がんばれ」という応援の言葉が、かえって競技の邪魔になってしまうのかと僕は改めて思い知った。アナウンスは更にこう続けて言った。
「皆様、応援ありがとうございます。本当にありがとうございます。ただ、このブラインドクラスの競技だけは、お声を出さずに応援して下さい。手を振ってください。手を振って応援して下さい」
僕は足元の雪を踏みしめて、一歩づつ観客たちの続くコーナーへと近づいていった。コースロープを隔てた向こう側のコース上に、どこの国だろう、白人の先導者の姿が現れた。苦しげにぜいぜいとあえぎながらも、一定の間を置いて「やっ、やっ!」と背後に向けての声を発している。彼の後ろを2、3メートル遅れてブラインドクロスの選手が姿を現した。そのコーナーはきつい上り坂だ。先導者も選手も同じように、たった今全力を出し尽くさんとする必死な顔つきをしている。両者とも、流れる涙と水洟とよだれで顔の下半分が濡れて、湯気を立てている。彼らは苦しげな喘ぎ声と、雪を削るスキーエッジの音だけを残して、そのコーナーから消えていった。
時間にして十数秒のことだ。選手たちを見やる一方で、僕はコースの周辺に群がる観客たちの姿をも垣間見ていた。彼らは、坂道の向こうに先導者の姿が見え始めた瞬間から、一斉に手を振り出した。ひとりの例外もなかった。懸命に手を振る誰しもが、はち切れんばかりの笑みを浮かべ、瞳を潤ませていた。やがて先導者の背後に、ブラインドクラスの選手が現れると、皆が皆、なお一層力強く手を振り出すのだった。僕もまたいつしか観客の中に混じって、懸命に手を振っていた。「がんばれ!がんばれ!」と声を出して叫びたいのを堪えながら、ちぎれんばかりに手を振った。彼ら2人の姿が山陰に消え、見えなくなってしまってから後も、随分長いあいだ僕たち観客は手を振り続けた。
ちぎれんばかりに振られる手、というものが、あんなにも美しいものだとは、僕は知らなかった。
久山は僕とは全く別の場所にいて、やはり同じことを感じていたらしい。特に彼の場合、善光寺の戒檀巡りで暗闇の怖さを体験した後だっただけに、ブラインドクラスの選手の気持ちが痛いほどわかったのだろう。おそらく彼も「がんばれ!がんばれ!」と叫びたかったに違いない。手を振って応援しろと言われても、その手にはカメラがあった。だから手を振る代わりに、シャッターを切った。これがその写真である。「がんばれ」という言葉がこの写真から聞こえてくるようだと僕は思う。
いい写真だなあ、久山。よく撮ってくれたな、ありがとう。

原田 宗典

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