久山との旅  長野パラリンピック-1 – 原田宗典

やあ、久山、久しぶり。(今気づいたんだけど、久山という名前は久しぶりの山と書くんだな)久しぶりなんだけど、全然そんな気がしないよ。先週会ったばかりのような気がしている。おまえ、まだこの辺にいるだろう。いるんだったら、思い出すのにちょっと力を貸してくれ。

おまえとは2人で本当に色んなところを旅したなあ。まだその旅が続いているような気がしてならないよ。本当は次、どこへ旅しようという話をしたいのだが、それは叶わないので、過去おまえと一緒にした旅のいくつかを思い出すままに語ってみようかと思う。
やっぱり一番印象深く思い出すのは、1998年の旅だよな。あの年は本当に数え切れないくらいの旅をしたな。覚えているか?3月パラリンピックの取材で長野へ旅したよな。まず、その時のことを思い出してみよう。

1998年3月長野
パラリンピックの取材をしようと思いたったのは訳があった。前年1997年の夏に僕はユーゴスラビアのベオグラードの郊外パリッチという町で一人の青年と知り合った。彼はボランティアでボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の難民キャンプに参加している正義感の強い日本人青年だった。名前はG島君という。彼は大学を出た後、某大手企業に就職をしていたがボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のニュース映像を見て、いてもたってもいられなくなり会社を辞めてボランティア活動に参加している男だった。僕が会ったときは医師免許がほしいが為に北大の医学部に入学しなおしたばかりの学生だった。僕はNHKの取材の一環として彼のもとを訪れたのであったが、彼は対談している途中でカメラに向かって急にこう語り始めた。
「テレビをご覧の皆さん、来年長野でパラリンピックがあります。オリンピックの方は誰もが注目していますが、パラリンピックは人手が全然足りていません。原田さん、あなたもおちゃらけたエッセイなんか書いてないでパラリンピックの取材に来てください。」
そう言われて、僕はその場で「わかった。必ず行く。」と思わず答えてしまった。よく年3月パラリンピックの取材に行ったのはこの時の約束を果たすためだった。この話を久山にしたら「ワシも行く」と即答した。でも2月は2人共ものすごく忙しくて開会式ぎりぎりになるまで久山は取材に来られるかどうか微妙だった。
取材に先立ってパラリンピックのプレス用のパスというものが必要だとわかってある出版社に口を利いてもらい、このパスをなんとか手に入れたのだが、前述のとおり久山のスケジュールがタイトだったので彼の分のパスは取ることができなかった。つまり僕らは僕の写真が貼ってあるたった1枚のプレスパスを2人で使いまわして取材することになったのだ。小心ものの僕は、
「大丈夫かなあ・・・」
と心配ばかりしていたのだが、こういうとき久山は常に大胆だった。
「そんなもん、へっちゃらや。ワシら悪いことするんやないんやから堂々と取材すればいいやん。バレたらバレた時のことや。」
いついかなる時どこへ行くのでも、久山の発想はこういう調子だった。久山のお陰で僕は一人では行けないところに沢山行けた。彼がいつもこうやって僕の手を引っ張ってくれたのだ。
3月5日、朝6時半ベッドに入り、9時には誰にも起こされなくても起床。やはり興奮していたのだろうか。10時すぎ、武蔵境から中央線で東京駅。切符を見ると、『東京→長野』となっているので「これは上野発? 東京発?」と迷う。とりあえず駅員さんに尋ねると「ここから、ですね」と言われる。
11時28分発あさまは15分遅れで発。初めての長野新幹線のグリーン車、快適である。大宮より集英社のM田さん乗ってくる。眠そう。車中にてサンドイッチとクロワッサンサンドを食べる。
1時14分長野着。駅前の変わりように驚く。「これがあの長野? あの腰砕け土産物屋しかなかった駅前?」と驚く。左手にホテルメトロポリタン。入っていくと、ロビーに久山が眠そうな顔で待っていた。僕同様ヘロヘロの様子である。しかしお互い「よくここまで来た!」ということだけでもう喜ぶ。2人共本当に辛い2週間であったのだ。
まず2人で部屋にチェックインして、M田さんはJTBに電話し、7日以降の部屋を確保してくれた。駅前のロイヤルホテルというビジネスホテルに決定。僕と久山はその間ベッドにぐったりしていたが、4時40分「そろそろ行くわよ!」とM田さんにせかされて、開会式会場のエムウェーブへ向かう。
と、出るといきなり駅前に黒山の人だかり。黒塗りの車が走り出したと思ったら、窓から皇族らしき女性が手を振っているではないか!「わー、キコ様!」と手を振る。久山は素早く写真を撮る。そばにいた人に「今の誰ですか?」と聞くと「雅子様よ」だと言う。げげー、まいった、間違っちゃったと頭を掻きながら歩き出すと、正面から「ども、ども」となぜか羽田元首相が出現!久山は「お、なんかラッキー!」とまたもや写真を撮る。
「いやー、幸先いいなー。ここんところずーっとこういう感じかんだよねー。神様―ありがとう!」
僕としてはこれ、本気。またもや例の不思議な符合、不思議なタイミングが始まったのだと思う。

駅の東口からタクシーに乗り込むなりM田さん「ねえ、運転手さん、ダフ屋って知らない?」と聞く。がダメ。「ちぇ、ちぇ、」とスネていると、前方に赤いサイレン。「お、また雅子様か?」と思いきや、車椅子の聖火最終ランナーだった。「三たびラッキー!」と久山、タクシーの窓を開けてフォトゲーット!


エムウェーブは想像以上にでかい建物だった。タクシーから降りると、小雨。小走りになって係員に聞きながら、MMC(広報)へ向かう。巨大な(ムダに巨大)地下駐車場を3人でびくびくしながら歩く。左へ曲がって、いよいよ検問所。「MMCの中田さんにご挨拶に来た。」という名目のもと、パスもチケットもないM田さん共々、3人共なぜか楽勝で検問突破成功!
中はなにやら報道陣の数が多く、慌しい雰囲気。MMCの事務局がどこなのか、なかなか見つからない。左手に記者会見場。そのへんにいる人に「MMC事務局どこですか?」と尋ねたところしょぼい仮設の受付があって「ここです」とのこと。続いて隣にいた中年男性に「中田さんはどちらでしょう?」と尋ねると、「私です」との答え。げげげ、である。早速、僕のパスを出して下さったお礼を述べた後、久山が自分の分のパスを発行してくれないかとお願いするも、ケンもホロロ。本当に不愉快そうな様子。「こりゃあかんわー」と久山あきらめる。しばらく記者会見場にいたが、
「しゃーない、客席へ行ってみっか」
とパスもチケットもなくてびくびくしているM田さんを連れて3人で、裏の方へ裏の方へ・・・。
何食わぬ顔で(実はドキドキ)階段を登り、ボランティアらしきチェック係の人に僕のパスだけ見せて「あ、ごくろうさまです。」とお辞儀しているスキに素早く久山もM田さんも会場へ入ってしまった。
「広い!おそるべしエムウェーブ!」
という第一印象。本当に天井の高さといい、リンクの広さといい、超巨大な施設である。400Mのオーバルの第1、第2コーナーよりにオーケストラボックス。中央に、聖火台らしき巨大モニュメントが設えてある。僕ら3人はあっちへウロウロ、こっちへウロウロ、したあげく、ようやくメディア招待席のブースを発見。M田さんに1枚だけあったチケットを渡し、ここで観てもらうことにする。
売店で買った焼きおにぎり、雪玉のように冷えていて、歯にしみた。みたらしだんごは、まあまあ。久山と2人で外でたばこを吸ったりしているうちに開演時間が迫り、オーケストラや合唱隊がぞくぞくと入場してくる。


指揮者が台の上にあがり、ロイヤルボックスの上の電光掲示板に目をやると、そこには「HOPE」という字が読めた。
と思った瞬間、ふっと会場内の明かりが落ちた。僕は鳥肌が立った。ついに来た、よくぞ来た、よくやった、と久山と2人で互いをほめあってやりたくなった。


これは、運命に負けなかった人達の祭典だ。運命に勝つことはできない、しかし負けないように生きることはできる。それを証明しようとする人たちがこの人たちなのだ。この人たちは、スポーツを戦う以前に自分の運命と戦わなければならなかった人たちだ。この人たちは、僕らの代わりの人たちだ。僕らの代わりにあそこにいる人たちだ。そして僕らにくじけないことを教えてくれる人たちだ。


ここには確かに何か尊い希望がある。そういう尊い希望のそばにいられることは、とても幸せなことだと思った。そこには何か純なものがある。だから開会式の印象はとても健気なものであった。
僕はその時の気持ちをノートにメモし、久山はその時の気持ちをカメラで撮った。なぜだかわからないけど2人共いつの間にか泣いていた。

原田宗典

続く、、、。

1 Comment

  1.    何時だったか、 この時の話を原田が熱く語ってくれたことがあった

            ずいぶん昔だったような気もする

         確かに 原田から、直接聞いたのだが・・・・

         あの日、 久山と原田の関係が 羨ましくもあった

            人生が長かろうが 短かろうが

      作家の友達なんて これから先も 原田 一人だろうなぁ

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